• ホース 音祝 おとほ


    松村正人



     きーないしキーを英語になおすと「key」となり、音楽用語ではある曲の「調」すなわちCメジャーとかいったときの音名の英語表記のCをわが国で一般的な呼び方におきかえるとドないしハだが、ホースの音楽のキーは暗号にいうところの「鍵」にちかいなにかのような気がしてならない。私の手元の『暗号事典』(吉田一彦、友清理士編/作品社)には以下のようにある。
    「暗号方式が与えられているときに、暗号化・復号を行うために必要な情報、暗号鍵、キーなどともいう」
     暗号にはまず方式がなければならない。鍵はそれを左項から右項に移行する、あるいはその逆もおこなうが、鍵は方式を励起すればことたりるからそれ自体に意味はない。その点をもって、鍵はヒッチコックのいうマクガフィンにちかく、ジジェクすなわちラカン流にいいかえれば、けっしてたどりつけない原初の欠落を意味する対象aであり――などとはじめると本論からそれるのできりあげるが、仮に原=音楽なるものがあり、そこに刻まれたなんらかの欠落を埋めるために現=音楽はいまなお連綿と欲動の歴史をつむいでいるのだとしたら、その足元には深淵がぽっかりと口を広げてまちうけている。むろんそのようなものがあるかはわからない。わからないが、しかしホースの音楽を聴くとき、私の聴覚は欠落にむけて夥しい数の音の記号の連鎖をたどりながら溯行していくのである。
     いつか聴いた曲、聴いたのにわすれてしまっていた曲、はじめて聴くのになつかしい曲――ホースが新作『The Old Ones』に「the forgotten recordings of HOSE」の副題を付したのはこのレコードが過去3枚のアルバムからの選りすぐりの楽曲と3曲の未発表音源で編んだことよりも上に述べたような彼らのあり方をしめしているからではないか。分類学上はジャズ、ロック、フォークロアの各種意匠に擬態したモチーフを実験的な方法で昇華した、唱歌、挽歌、哀歌の総称としての前衛軽音楽とでも呼ぶべきここにおさめた楽曲はあらかじめ対象を欠いた忘却(forgotten)としてたちあがる。このまがまがしいほどの古びなさはおそらく、ほぼ全曲編集、ミックスをほどこし、いちぶの楽曲では追加録音もおこなったというマテリアルの更新に多くを負っているとはいえ、ホースの音楽の特異な忘却の態様に由来する無時間性とも無縁ではない。干支がひとまわりするほどのキャリアをもちながら、いまなお曲がり角ででくわすかのような佇まいでいつづける集団はそうはない。
     江崎將史、古池寿浩、泉智也、服部玲治と宇波拓によるホースはリーダーの宇波を中心に、これまで3枚のアルバムでその(不)可能性を伸張してきた。2007年のファースト『HOSE』でシステムとの斗争にはいりつつあったゼロ年代後半の音楽シーンに鬱勃と打って出たが、バンドの結成の契機となった最初の語らい以来活動は連綿とつづいており、その最初期の作品が『The Old Ones』でいえば、C面2曲目の「gone astray」にあたる。『Ⅲ』収録の楽曲のリテイクとなるこの曲の背景をふくめ、楽曲の詳細は宇波拓の覚書を参照いただくとして、間欠的なリズム、対話的な、あるいは一方的な通話のような合奏と、メロディアスでありながら記憶の網から抜け落ちるかのような旋律はうまれたときからホースはホースであったというすがすがしい事実を物語るかのようである。とはいえ脱臼的なユーモアはいまだ後景にとどまっている。それが前面にあらわれるのは本作のD面1曲目に収録したファーストの1曲目「a thing that is not as it has been used」であり、きわめて構想的な、その意味では実験音楽的といってもいいこの曲はホースの神話理論の構築に寄与することになる。すなわち寓意あるいは語り草としてひとの口の端から端へ伝わるなかで、ホースは作曲者宇波拓の思弁を 再現 リアライズ する集団とみなされてきたきらいがあるが、私はこのたび『The Old Ones』に耳を傾けてあらためて思いいたったのは彼らの楽曲の聴きどころの多さである。古池、江崎の個々の演奏と二管のゆらぎ、ふるえ、絡みはむろんのこと、服部のバウロンの意想外の打点、宇波のギターは楽曲にとけこみ輪郭を保ち、泉智也のベースはそれらの間隙を縫いうねっている。僭越ながらもうしあげると、私もベースを弾く身として泉のように弾けたらどんなにいいだろうかと思ったことはいちどだけではない。ジミヘンのギター破壊がノイズ(ミュージック)の呼び水のひとつだったことになぞらえるなら、プライマスのレス・クレイプールのスラップやジャコ・パストリアスがネックにくらわせる掌底はベースのノイズである。泉智也のベースはその瞬間だけを蜿蜿と生産しつづける。異分子をかかえこむ合奏形態は作曲と即興という2000年代の問題の系を――はからずも、あるいは意図的に――潜在させ、共同性が作品に循環するなかで、ホースは集団としての可能籍を拡張してきた、あるいは不可能性を縮減した。可能と不可能の二語はたがいにいれかえ可能だが、しかし『The Old Ones』では都合3枚のアルバムで、ときに自己批評的に機能した多様性よりもホースの音楽の骨格をつまびらかにすることに重きを置くかにみえる。
     骨格とは構造であり、構造とは、ケージのいうように「フレーズから長いセクションにいたる継続的な部分への分割」のことであるなら、ホースの構造は反復と階層化のあいだでうごめいている。演奏には成功も失敗もあるにちがいないが、この二語もまたホースにとっては同義でしかない。というのも音楽の解釈について、ホースはおそらく余白をもうけるからであり、演奏における音の交換の気の置けなさは彼らと観衆ないし聴衆とのあいだをあたかも即興演奏の空間によく似た関係性できりむすぶ。
     その空間をとらえるのは録音の役割であり、宇波拓というきわめて記名的な音づくりをものする音楽家の手を経てはじめてホースの音楽ははじめて確定性をえるのである。覚書にあるとおり、宇波はこれまでのアルバムを独自の狙いのもとで録ってきた。『The Old Ones』ではそれらを192khz/32bitにアップコンバートしたのちマスタリングしなおしたというが、整音により音は厚みを、楽曲は存在感をいやましにましたばかりか、忘却(forgotten)の淵にあった音はみいだされた対象(found-object)として現在に再帰し、作品にひそむ符牒をもうきぼりにしている。未発表の3曲をのぞき、楽曲はいずれも既出だが、追加録音やバージョンちがいを多くふくみ、オリジナルとの差異を楽しむのも一興である。というより、その差異こそが、一般性に回収できないホースの特異性をうべなう「鍵」であり、3作目から7年、雌伏するホースの動態の 記録 レコード ともなっている。ことばの面ではどうか。ホースの基調はインストゥルメンタルだが、楽曲の基底部をなんらかの概念や観念がささえている。そのことはおそらく美術と映画とを問わず、他分野の異才との交流の回路となるにちがいないが、観念を構成する言語の音楽へのあらわれに焦点をあてると、ひとの存在のはかなさや死の概念がホースの音楽にはいろこく影をおとしているのがわかる。海や石や木やトンカツなどの事物もまた彼らは音楽にとってはモチーフ以上の意味がある。あるいは他者を欠いたまなざしに映る事物とでもいえばいいか。それらを散りばめた『The Old Ones』を聴きながら、私は白砂をとりまく松林のむこうに海がひらけ、沖には島がある。その島は無人であり、主体を析出するいかなる他者も存在しない――そのような風景を夢想してしまうのは、いかに現在のポピュラー音楽が他者によりかかった感情にふちどられているかということの反証だとさえ思わなくはない。べつにそれでもいいんだけどさ、制度や形式やフォーマットやテクノロジーや分類や人倫や死生観や存在論や演ること、聴くこと、聞くことに、聴きながらふれられる音楽があってもいいじゃない。『The Old Ones』はまさにそのようなレコードであり、2枚組4面の溝に横たわる音の連なりはあらゆる原理に悠揚とものもうすようでありながら、そのじつ鋭く交錯し、熾火のような不可思議さと心地よさで私たちを 音祝 おとほ ぐのである。であれば私たちはその再開と再会を 言祝 ことほ ぐにしくはない。










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